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学部

作品
伊沢真実
《概念的遡行によって生成される背景としての音》
(声を使った5.1chサラウンド作品) 概念的遡行によって生成される背景としての音

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《概念的遡行によって生成される背景としての音》

(声を使った5.1chサラウンド作品)

概念的遡行によって生成される背景としての音

伊沢真実

本作品は、未来から過去へと時を遡ることをテーマにした5.1chの音響作品である。音楽は遠い未来から始まる。そこは“終わり”の更に先である。“終わり”の定義は人それぞれである。自らの死を世界の終わりと同義とする考えもあれば、地球からあらゆる生物が絶えた時、太陽系が消滅した時、あるいは仕事をクビになった時、恋人に振られた時、などという“終わり”の定義が有り得るのも想像に易い。しかしどのような定義に基づく終末であろうとも、その先に続く時間は存在している。

本作品のコンセプトは“終わり”の向こうの世界から過去へと時間を遡ることである。本作品を構成する音の素材は、大きく歌とそれ以外の声や環境音とに分けられる。そのうち前者は不確定性の要素を取り入れて作曲されている。リズムとテンポは完全に演奏者に委ねられ、ピッチにおいても多少の自由がある。演奏者にはソプラノに5個、アルトに3個、テノールに2個、バスに1個の音符が割り当てられおり、それらをいかなる順序、いかなるテンポで演奏しても良い。また同じ音符を何回使用しても良く、連続での使用も可能である。

本作品ではバスにピッチの不確定性が与えられていないが、ピッチ以外の面で重要な役割が与えられている。それに言及する前に各声部への音符の割り当て方について説明したい。各声部に割り当てられた音符は、ある音を基音としたときの第2倍音から第12倍音までを音域に合わせて振り分けたものである(第2倍音はバス、第3・第4倍音はテノール、第5~第7倍音はアルト、第8~第12倍音はソプラノというように)。よって基音が推移すれば同様に、その倍音であるべき各声部の音の選択肢も新たな音高へと移る必要がある。その、基音を移す役割をバスが持っているのである。つまり、バスの音が変化したとき、それに合わせて他の声部も音の選択肢を丸ごと変化させることになる。基音の変化においては、音高とそれが移り変わる順序が規定されているため、バスはその規定に則りある基音が次の音に移るタイミングを決定できるのである。

音価については曲の部分により全声部スタッカートまたは全声部レガートと規定されており、レガートの場合は音価の決定は演奏者に委ねられる。このとき演奏者は歌唱が一定のリズムやテンポを生み出さないように留意しなければならない。

本作品ではこのように構築された歌唱に環境音等を合わせて、録音ならではの表現を追求した。

羽深由理
《ちいさな灯り》
(絵本アニメーションのための5.1chサラウンド作品) ちいさな灯り

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《ちいさな灯り》

(絵本アニメーションのための5.1chサラウンド作品)

ちいさな灯り

羽深由理

どこにでもいる少年 テム と
口をきかない不思議な動物 ポー の出会い。
ろうそくの灯りが照らし出すのは
不思議な世界。

私は、学部四年間で、アニメーションにつける音楽の研究及び作曲をしてきた。その集大成として選んだのが今回の作品《ちいさな灯り》である。

大学入学当初、「楽しい音楽」「悲しい音楽」などの雰囲気だけを頼りに曲を作ることが多かった。しかし、色々な作品を制作していくうちに、感覚だけではなく、理論的に音楽を構成することはできないのか、と考えるようになった。

映像につける音楽の全てが理論的に構築されたものであるべきだとは思わない。しかし、理論的な裏付けを得ることで、音楽はより映像と響き合うことができるのではないか。そこで、音楽が映像を単に感覚的に補強するだけで終わらないよう、曲の構成やモチーフの選択を徹底的に追究したスコアを作ってみたいと思った。

以上の考察に基づいて、音楽のコンセプトは、「作品全体の統一性を意識し、全ての音に意味を持たせ、計算された曲を作る」こととした。学部二年次から共同制作を行っている、大桃洋祐(東京藝術大学美術学部デザイン科修士二年:アニメーション担当)、宮澤詩織(同大学音楽学部音楽環境創造科学部四年:サウンドデザイ担当)の両名と組み、アニメーション、音楽、効果音、三つの要素が対等となる構成を一から考え、脚本段階から共同制作をした。

卒業制作展では、音とアニメーションの作品上映(5.1chサラウンド再生)の他、全曲の楽譜、論考(楽曲解説)、記録写真(総勢40人による生演奏の録音風景、台詞録音風景など)を展示する予定である。

村上史郎
《夏蒐山の音楽》
(サウンドインスタレーション) 夏蒐山の音楽

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《夏蒐山の音楽》

(サウンドインスタレーション)

夏蒐山の音楽

村上史郎

川崎市郊外、私の地元で行った2つの作曲活動の記録録音によるサウンドインスタレーションの展示。『虎舞』は地域の和太鼓グループと共に創り上げた新しいお祭りの音楽。子ども達が元気に飛び跳ねる。『法要のための音楽』は地元のお寺のために作曲した龍笛とソプラノと弦楽による四重奏曲。伝統ある仏教音楽と新作音楽の共存。環境と人との間にある音楽を目指して。

安川みか
《juxtaposition》
(声とVOCALOIDによる音響作品) juxtaposition

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《juxtaposition》

(声とVOCALOIDによる音響作品)

juxtaposition

安川みか

2000年3月から開発が始まった音声合成技術、VOCALOID(※)。

2007年に発売された「初音ミク」をきっかけに、VOCALOIDは単なるソフトウェアとしてだけではなく、歌い手としての身体を与えられたバーチャルアイドルとしての道を歩んでいる。

一人のキャラクターの確立によりつくりだされた、「非実在歌手」という新しいシンセサイザー音源のスタンス。その声のために楽曲が日々量産され、その声をより人間らしくするための研究が日々行われ、

「VOCALOIDは『機械らしい声』を追究し、機械にしかできない音楽を表現すべきではないか」

「VOCALOIDは『人間らしい声』を手にし、人間と対等な関係を持つことになるのではないか」

等といった熱い議論が日々飛び交っている。

私は今作品においてVOCALOIDと人間の肉声を同列に扱い、人間に近づきつつあるが、決して人間ではない機械の歌声と、生身の人間の歌声が、優劣なしに並列するような音響作品を創ることを試みた。タイトルの『juxtaposition』は日本語で「並列」を意味する。

人の創りし歌声と、
人の奏でし歌声、
並列せよ。

※ VOCALOIDはヤマハ株式会社の商標登録です。

馬場省吾
《1つの規範と3つの形式 または、直喩としての時刻》
(インスタレーション) 1つの規範と3つの形式 または、直喩としての時刻

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《1つの規範と3つの形式 または、直喩としての時刻》

(インスタレーション)

1つの規範と3つの形式 または、直喩としての時刻

馬場省吾

あらゆる芸術は、「規範」と「形式」によって成り立つ。

ある1つの芸術規範が定立されたとき、そこから適切な芸術の形式が導出される。その規範を演繹するのは、何らかの原理である。原理の目的にあわせて、新たな規範が演繹され、そこから形式が導出される。規範は形式を再検証し、形式は規範を逆照射する。

この作品は、その「原理からの芸術の規範と形式」という構造自体を定式化し、構造それ自体(「芸術の定義を規範と形式とせよ」)を規範として、絵画・音楽・詩という西洋芸術の伝統的な3つの形式を導出している。構造を見せるための直喩として、原理は「現在時刻」を措定している。

「現在時刻の線描画家」は、72個のアナログ時計が、現在時刻によって異なる線描を描き続ける。

「現在時刻の聖歌隊」は、8個のスピーカーが、現在時刻を基にした音列をバスとした和声進行をする4声の聖歌を歌い続ける。

「現在時刻の反即興詩人」は、1個のプリンターが、現在時刻をプリンターの色彩インクによる記号列として記述した詩を書き続ける。

彼らは1つの原理と1つの規範によって、全自動的に芸術作品を作り続ける。そこには意味も思考も消え去り、存在するのは導出された事象としての形式と、それを処理する能力のみである。

遠藤憲司
《音の世界地図》
(サウンドインスタレーション) 音の世界地図

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《音の世界地図》

(サウンドインスタレーション)

音の世界地図

遠藤憲司

空間上に世界地図を“可聴化”した作品。世界各地から音を集め、それらを世界地図を重ね合わせた空間上に再構成することで、音のみで世界地図を再現した。鑑賞者は聞こえてくる音と地図を頼りに世界地図上を自由に歩き回り、立っている地点を音で認識したり場所による全体の聞こえ方の違いを聞き比べることができる。

日下真平
《組曲『惑星』より 火声 -戦争をもたらす者-》
(声のみを使用した5.1chサラウンド音響作品) 組曲『惑星』より 火声 -戦争をもたらす者-

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《組曲『惑星』より 火声 -戦争をもたらす者-》

(声のみを使用した5.1chサラウンド音響作品)

組曲『惑星』より 火声 -戦争をもたらす者-

日下真平

発音媒体を、制作者自身の声のみに限定した多重録音音響作品。

グスタフ・ホルスト作曲の組曲《惑星》より《火星~戦争をもたらすもの~》を題材とし、5.1chサラウンドシステムで再生される。

非常に古く・長い歴史を持つ“ア・カペラ”という形態と、近現代の録音・編集技術によって進歩してきた“多重録音”という手法。

2つの異なる音楽へのアプローチをミックスした。

佐藤尚子
《カスカンド》
(サミュエル・ベケット作「カスカンド」の舞台音響演出) カスカンド

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《カスカンド》

(サミュエル・ベケット作「カスカンド」の舞台音響演出)

カスカンド

佐藤尚子

「カスカンド」はサミュエル・ベケットによって「音楽と声のためのラジオ台本」として作られた。

ラジオのために書かれたこのテキストに、空間を与えることで何が生まれるのか。

第7ホールの広く、ぽっかりとした空間を使って、音響という立場から「カスカンド」を考えた。

宮澤詩織
《ちいさな灯り》
(絵本アニメーションの5.1chサラウンドでのサウンドデザイン) ちいさな灯り

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《ちいさな灯り》

(絵本アニメーションの5.1chサラウンドでのサウンドデザイン)

ちいさな灯り

宮澤詩織

アニメーションを形づくる「映像」と「音」という二つの要素を対等に捉えた、音とアニメーションの作品のサウンドデザイン(音響制作)を行った。

一般的なアニメーション作品においてはプロジェクトの中盤から制作に参加することの多い音セクションであるが、本作品では、映像セクションと音セクションが企画段階から同時にプロジェクトを進行させ、制作者同士がお互いに深く関与しながらひとつの作品を制作することを試みた。

(5.1chサラウンド再生)

共同制作者:大桃洋祐(アニメーション)

羽深由理(音楽)

山﨑朋
《途上の風景》
(ダンス作品 初演時の記録映像展示と再演) 途上の風景

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《途上の風景》

(ダンス作品 初演時の記録映像展示と再演)

途上の風景

山﨑朋

2010年11月に松戸駅前の雑居ビル一室にて行われたソロダンス公演の記録映像展示。また、会場を第7ホールへと移し、改変を加えての再演。過程を過程それ自体として見、そこに「意味」を内在化させるための試み。(第7ホール公演では演出の都合上、上演中の入退場はお控え下さい。)

玉井祥子
《細墨生成図》
(肉眼の可視範囲内における極限に微細小な図描画) 細墨生成図

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《細墨生成図》

(半立体作品)

細墨生成図

玉井祥子

人体の微細たる内密性、すなわち微小な細胞の流動的印象と細胞浮遊の休息作用についての、肉眼の可視範囲内における極限に微細小な図描画による探求作品です。

論文
下西奏
《地域コミュニティにおける「公」と「私」を探る音楽表現の需要とその可能性 -団地での音楽プロジェクトを事例に-》 地域コミュニティにおける「公」と「私」を探る音楽表現の需要とその可能性 -団地での音楽プロジェクトを事例に-

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《地域コミュニティにおける「公」と「私」を探る音楽表現の需要とその可能性 -団地での音楽プロジェクトを事例に-》

地域コミュニティにおける「公」と「私」を探る音楽表現の需要とその可能性 -団地での音楽プロジェクトを事例に-

下西奏

本稿では、音楽を用いた表現に、異なる人々が集うことのできる公共的な空間を創出する可能性があると想定し、実施した企画を元に音楽プロジェクトについて考察することで特定の集団に音楽がどのように介入していけるのかということを探る。また、そのような可能性を持つ音楽プロジェクトを分析することによって、個人が持つ「私」的な部分がコミュニティの持つ「公」的なもののなかでどのように揺れ動き、新しい集団を構成することになるのかということを明らかにしたい。

企画を実施したのは、ある一定のコミュニティを構成していると思われる「団地」である。団地は、一軒家の集合住宅とも集合マンションとも違う特殊な集団を構成している。さらに、企画を実施したフィールドである団地は、近年の団地ブームのなかでも特に注目を集めている。それは、その団地が多くの団地のなかで特に「コモン」という点に重きをおかれてつくられたからなのではないかと思われる。しかし、そのコモンの象徴である団地の真ん中にある「原っぱ」は、現在、建替え問題による対立から、以前のような住民の交流の場ではなくなってしまった。この団地の「公」と「私」、コモン(=公共性)に注目し、原っぱという場所の特性から、団地と団地のなかでの音楽プロジェクトについて分析を試みる。

第1章では、団地にこめられた「コモン」という理念とテーマが、どのような時代背景から生まれたものかということを考える。

第2章では、そのコモンの象徴である原っぱに音楽を存在させることで、建替え問題による対立から「コモン」が失われつつあるの原っぱの本来の姿を住民に感じてもらうことを狙いとして企画された原っぱコンサートについて考察する。

第3章では、「公共性」が住民のなかでどのように存在するのかを探るために、私的な空間である住民の家でコンサートを実行し、「私的」な場所に公共性をもたらすことを試みたサロンコンサートについて考察する。

第4章では、我々が予想していた以上に「私」が強かったことで失敗に終わったサロンコンサートを踏まえ、「私」に対して新しい状況をもたらすことで、原っぱを変容することを試みた企画「ゲリラ音遊び」を考察し、原っぱの本来の姿を取り戻す可能性について触れることで本論のまとめとしたい。

高橋麻衣
《アートプロジェクトにおける社会関係資本の考察 -北本ビタミン2010を事例に-》 アートプロジェクトにおける社会関係資本の考察 -北本ビタミン2010を事例に-

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《アートプロジェクトにおける社会関係資本の考察 -北本ビタミン2010を事例に-》

アートプロジェクトにおける社会関係資本の考察 -北本ビタミン2010を事例に-

高橋麻衣

ここ10年ほどで「アートプロジェクト」という言葉を耳にする機会が増えている。特に2000年から始まった「大地の芸術祭  越後妻有アートトリエンナーレ」が観光人口の増加とそれに伴う経済効果をもたらし成功事例として認められてからは、「まちづくり」の効果的な試みとして全国各地でアートプロジェクトが開催されている。2010年は、大地の芸術祭規模の大型プロジェクトである瀬戸内国際芸術祭やあいちトリエンナーレが始まり、アートプロジェクトは今後ますます熱を帯びてくるだろう。 

本稿では、アートプロジェクトの持つ「社会的な文脈へと接続・介入していこうとする企て」という特徴に着目し、そこから創造された関係の形成プロセスと特徴をアートプロジェクトの運営の参与観察から試みる。また、関係の特徴を人々の関係を資本の一つとして捉える概念である「社会関係資本」を導入し分析を行う。

「社会関係資本」は人やグループ間の信頼・規範・ネットワークに着目し、それらを資本として捉える概念であり、「ソーシャル・キャピタル」とも呼ばれている。

第1章では社会関係資本の代表的論者の理論を挙げ、概念の変遷を辿る。その中から、アートプロジェクトによって形成される関係を分析するにあたって有効であると考えられる「社会関係資本」の概念の抽出を試みる。

第2章では、筆者は参与観察を行った埼玉県北本市で行われているアートプロジェクト、「北本ビタミン」の沿革を辿る。そこから運営組織の特徴を抽出し、社会関係資本の概念を導入して分析を行う。

第3章では「北本ビタミン」で行われたイベント「日本文化デザイン会議2010  アートプロジェクトwith北本ビタミン」のプログラムのうち、「北本駅アートギャラリー」、「澤田Bar」、「リビングルーム」を取り上げ、各イベントで創造された人々の関わりを、第2章と同じく、社会関係資本の概念を導入す、社会関係資本の形成プロセスを探る。

第4章では、第2章と第3章での事例分析から、北本ビタミンにおける社会関係資本の特徴を考察する。そこからアートプロジェクトによって創造される場のもつ可能性を探っていく。

處美野
《ソニフィケーションの応用事例の分類と考察》 ソニフィケーションの応用事例の分類と考察

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《ソニフィケーションの応用事例の分類と考察》

ソニフィケーションの応用事例の分類と考察

處美野

ソニフィケーションとは、もともと音ではない情報を音に変換することである。「情報を伝達するために非言語音を使うこと」と定義され、とりわけコミュニケーションや物事の判断を容易にするために使用される。すなわち、何かしらのデータを非言語音に変換し、その音に含まれた「情報」を「聴く」ことである。

ハイブリット車の静音性に対応して付けられた、車両接近通報装置はその1つの例である。車両接近通報装置は、歩行者等が自動車の接近等を認知できるように、車の発進から車速約25km/hに至るまでの速度域において自動で発音する。通報音は、モーター音を模した音とし、車速の上昇に伴い周波数を高めることで車速の変化も表しており、「車速」という情報を聴くことができる。

ソニフィケーションは90年代以降、個々の応用研究が進み、成果が発表される一方で、研究領域全体の現状をまとめ、分析することはあまり行われなくなった。90年代に見られたソニフィケーションの分析では、研究概要や応用法の紹介、解説はなされているものの、具体的な事例の提示が少ない。現在のソニフィケーション研究の動向や実際の活用法を知るためには、個々の研究を調査するしかなく、それらがまとめられたものは見受けられなかった。本研究では実際にソニフィケーションが応用された事例を分類整理し、考察することで、様々なソニフィケーションの活用法を提示するとともに、ソニフィケーションの動向を探ることを目的とする。

今回、ソニフィケーションの応用事例を合計79件収集した。ソニフィケーションはどのような情報を、どのような手段で実現し、何を目的とするのかという、大きくわけて3つの要素によって成り立っている。これらを

[1]入力 [2]出力 [3]目的とし、この3つの項目においてそれぞれ分類を行った。分類結果を一覧表にし、ガットマンの尺度解析法によって事例を並べ替え、前述の3項目の各視点から分析した後、さらに年代を加えた4項目を2つずつ組み合わせた6つ、計9つの観点から分析した。続けて、分析時と同様に9つの視点で考察した。

中新田風子
《ピアノ演奏の映像と音のズレの感じ方についての実験と考察》 ピアノ演奏の映像と音のズレの感じ方についての実験と考察

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《ピアノ演奏の映像と音のズレの感じ方についての実験と考察》

ピアノ演奏の映像と音のズレの感じ方についての実験と考察

中新田風子

音と映像のズレに気が付いたとき、私たちはその映像に違和感を覚える。

それは、映像が録音・撮影されたあくまでフィクションであることを気付かせてしまうということであり、映像の製作者にとって致命的なことである。本研究はそのような製作の場において、一つの指標となるようなデータを打ち出すことを目的としている。

今回は「クラシック楽曲のピアノ演奏の映像」を用い、「合っている」「ズレている」とは何か、どの程度の許容範囲を持つものなのか、それは楽曲の内容やカメラのアングルに左右されるのか、18名の被験者による実験結果を踏まえ、考えを論ずる。

稼農慧
《ホスピタリティ的音楽と場所 「系」と「音楽場」の超克-》 ホスピタリティ的音楽と場所 「系」と「音楽場」の超克-

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《ホスピタリティ的音楽と場所 「系」と「音楽場」の超克-》

ホスピタリティ的音楽と場所 「系」と「音楽場」の超克-

稼農慧

仮に音楽が音楽家と聴衆の関係によるものならば、音楽家とは一体何者だろうか。そこで強調される<私>とは、また音楽家にとっての他者とは、何者だろうか。筆者のパリ、新潟、東京での体験をもとにそれを考える。

修士

作品
松岡美弥子
《drama -for Alto Saxphone & Electronics》
(アルトサクスフォンとマルチチャンネルスピーカーによるライヴエレクトロニクス作品) drama -for Alto Saxphone & Electronics

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《drama -for Alto Saxphone & Electronics》

(アルトサクスフォンとマルチチャンネルスピーカーによるライヴエレクトロニクス作品)

drama -for Alto Saxphone & Electronics

松岡美弥子

音楽によって、映像や物語のようなドラマ的な想像を喚起したいと思い、作曲した。

音楽は、アルトサクソフォンの生演奏と、あらかじめ制作したエレクトロニクス部分の再生による。エレクトロニクス部分は、広がりのある世界を表現するために、4チャンネルの立体音響を用いた。

その場で奏でられる楽器の音と、電気的に作られ加工されたシンセサイザーの音、演奏者によりその場で演奏される音とスピーカーで再生される音。それぞれの対比を大切にしながら、音楽によってドラマを組み立てることを試みた。

Taro Peter Little
《Untitled》
(マルチチャンネルによるミニマル/ドローン作品) Untitled

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《Untitled》

(マルチチャンネルによるミニマル/ドローン作品)

Untitled

Taro Peter Little

オルガン、弦、管楽器、環境音や声、変調された音や合成された音など、

ありとあらゆる音をひとつの「かたまり」になるまで積層させていった音楽。

マルチチャンネルスピーカーによる、ミニマル/ドローン作品。

論文
小暮麻弥
《クラシック音楽の演奏家による創造的なワークショップの可能性 -音楽アウトリーチの現状と実践事例の分析を通じて-》
クラシック音楽の演奏家による創造的なワークショップの可能性

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《クラシック音楽の演奏家による創造的なワークショップの可能性 -音楽アウトリーチの現状と実践事例の分析を通じて-》

クラシック音楽の演奏家による創造的なワークショップの可能性 -音楽アウトリーチの現状と実践事例の分析を通じて-

小暮麻弥

現在、子どもは様々な形で音楽と出会う。子どもとクラシック音楽の演奏家が出会う機会は増えてきている一方で、子どもたちはプロの演奏を間近で聴くことができても、創造行為としての音楽活動は体験できていない状況にある。それは、「創る人」「聴く人」「演奏する人」が明確に区別され、ほとんどの人が「聴く人」のみにおさまってしまうということによる。

こうした現状を受けて、クラシック音楽の演奏家とともに、ワークショップの本質的意義を踏まえ、クラシック音楽の知識や様式を前提としない、音楽を「創る」ワークショップを実践した。その定性的行動分析をもとに、演奏家と子どもが同じ立場で「共に創る人」となるワークショップはいかにして実現可能かを明らかにすることが本稿の目的である。

第1章では、子どもと音楽の出会いをもう一度整理して俯瞰する。子どもと音楽家との出会いであるアウトリーチ活動の内容を紹介するとともに、他芸術ジャンルのアウトリーチ活動と比較し、音楽独自の問題点を明らかにする。さらに、学校の音楽教育、子どもの音楽的発達を加味し、音楽を「創る」という活動の現状について言及する。

第2章は、第1章の現状を踏まえ、「創る」活動を実践している事例を見る。ニューヨークフィルハーモニックのティーチングアーティストのワークショップと、その手法を取り入れている砂田和道のワークショップだ。彼らの理論、そして実際のワークショップの様子を見て、音楽家によって、子どもが「創る」ことが可能となっている例として紹介する。

第3章では、ワークショップの本質的意義について、その起源の三つの潮流に共通してあるジョン・デューイの思想に触れて、明らかにすることを目指した。それを受けて芸術ワークショップの可能性について言及する。

第4章は、第3章の芸術ワークショップの可能性を踏まえ、筆者が実践した「非構成的」に展開し、参加者一人ひとりがあるがままの自分でいるということを重視した創造的な音楽ワークショップの分析を行う。クラシック音楽の演奏家と子どもが、「共に創る人」となり、子どもにとっても演奏家にとっても「創造的行為としての音楽活動」がいかにして可能か、その子どもと演奏家との新たな出会いの可能性を検証する。

李和宣
《現代ダンスにおける技術的メソッドの社会包摂的可能性 -英国の青少年校正プログラムAcademyを事例に-》
現代ダンスにおける技術的メソッドの社会包摂的可能性

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《現代ダンスにおける技術的メソッドの社会包摂的可能性 -英国の青少年校正プログラムAcademyを事例に-》

現代ダンスにおける技術的メソッドの社会包摂的可能性 -英国の青少年校正プログラムAcademyを事例に-

李和宣

近年、芸術と社会を結び付ける様々な活動の中で、現代のダンスは、大衆に対して「見るもの」のみならず「参加する」ことによる自己啓発的な意味や地域社会の活性化の意味など社会的な役割も果たしている。そうした社会性を帯びたダンスの一環として、一般人を対象にするワークショップやダンスを用いた社会活動などが頻繁に行なわれている。それを可能にした要因は、近年活発に行なわれている同時代のダンス、すなわちコンテンポラリーダンスの方法論に内包される開放性であると言えよう。コンテンポラリーダンスの自己身体の探求による表現は技術的メソッドより創造性を強調し、個々に柔軟に働きかけ、ダンスの大衆への浸透を容易にしたのである。

日本における現代ダンスは二つの傾向をもつ。一つはその創造性や柔軟性、同時代性や革新性を帯びている現代ダンス、すなわちコンテンポラリーダンスで、もう一つは従来の技術的メソッドの訓練や形式を継承かつ固守しているモダンダンスであろう。

しかし、日本の社会の中で、モダンダンスは同じ現代ダンスにもかかわらず社会や大衆に浸透しにくい性質をもっており、それはモダンダンスを成立させる技術的メソッドに関係している。 いいかえればリテラシー教育環境が整っていない日本の社会においてバレエや伝統舞踊のように、長い間明確な価値基準が成立してきたダンス分野と比べて、モダンダンスは観客に及ぼす影響や社会性に多くの限界をもっているのである。

現代ダンスの存続や拡大、そして大衆への浸透のためにモダンダンスも現代社会に相応しいシステムの開発や努力によって、その閉鎖的な専門性による制約を克服していかなければならない。

第1章では、現代社会におけるダンスの在り様について考察する。そもそも日本の社会がもつ歴史的、時代的背景から現在にいたる様々な要因を分析し、二つの現代ダンスの様相を訓練方法の特性に基づき分類を試みる。まず、モダンダンスのメソッドの中心となる訓練のためには家元制度にも似たシステムが不可欠であり、その背景にある“現代舞踊協会”の役割を把握する。

また、ダンスと社会との関連性を考える際に、近年行なわれている社会的ダンス活動、“コミュニティダンス”の分野で、日本においてはコンテンポラリーダンスが用いられていることに着眼し、モダンダンスのメソッドによる訓練方法の技術性が大衆や社会に浸透し難い要因となっていると指摘する。

第2章では、“コミュニティダンス”の中でも、現代ダンスの技術的メソッドが用いられている英国の青少年更正プログラムAcademyを分析し、参与観察とヒアリング調査を踏まえて論述する。また、Academyが用いている訓練方法との比較のために実際に日本の二つのダンスのワークショップに参加し、モダンダンスとAcademyが技術的メソッドを用いるという点で多く類似していることを検証し、日本のモダンダンスがもつ技術的メソッドを今後の社会に活用する方法について検討する。

第3章では、Academyがもたらした社会的な成果や評価を検討し、それが再び芸術界に寄与する過程に触れる。そして、Academyには短い歴史ゆえの制約や限界性があることを指摘した上で、日本における具体的な活用方法や効用を検討し、日本のモダンダンスの社会的活用方法、および意義を探ることを本論文の結論とする。

田中教順
《スネアドラム音色と心理的印象の関係についての一考察》
スネアドラム音色と心理的印象の関係についての一考察

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《スネアドラム音色と心理的印象の関係についての一考察》

スネアドラム音色と心理的印象の関係についての一考察

田中教順

本論文では、2008年に行われた筆者による「ドラムセットの音色の印象についての定量的な評価を行う、という目的から、第一段階としてスネアドラムについての音色の印象についての実験と考察」という先行研究を更に進めたものである。

本実験においてはチューニングの変化、という新たな構成要素を取り入れ、3台のスネアドラムにそれぞれ3種類のチューニングを施し、合計9つのスネアドラム音色を新たに録音し、その録音された音源を用い一対比較法と評定尺度法による試聴実験をおこない、MDSと回帰分析によって分析を行った。

その結果、各スネアドラム音色の心理的距離にもとづく二次元上の図表と、8つの評価語による音色の印象評価との関連についての分析結果を得ることができた。

分析結果から、MDSによって得られた二つの次元のうち、次元2はスネアドラムのチューニングによって変化した音程と関係があるのではないか、という考察に至り、胴鳴りの部分を強調する、2kHz以下のスペクトラル・セントロイドを算出し、各刺激の次元2における値との間の相関係数を算出したところ、非常に高い相関があることがわかった。

反面、次元1に関して相関の高いパラメータを見つけることは出来なかった。筆者の推測として、各スネアドラムにとって中庸なチューニングを施したときと、それ以外のときで次元1の位置が異なること、そしてその位置は各スネアドラムによって異なることから、次元1は「チューニングと胴の特性との関係によって変化する領域」ではないか、という仮説が立てられた。

次元2にチューニングの変化、というパラメータとの相関が認められたことで、筆者の先行研究では明らかにならなかった「聴取者達はスネアドラムのチューニングの相違を何らかの感覚で聴き分けることができる」ことが明らかになり、更にMDSの結果から「異なるスネアドラムがチューニングを近づけても、チューニングの異なる同一のスネアドラムに強い類似性を感じることもある」ということがわかった。

山田啓太
《情動の想起を意図した楽器演奏音と情動の伝達に関しての検討》
情動の想起を意図した楽器演奏音と情動の伝達に関しての検討

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《情動の想起を意図した楽器演奏音と情動の伝達に関しての検討》

情動の想起を意図した楽器演奏音と情動の伝達に関しての検討

山田啓太

本論文は、情動の想起を意図した楽器演奏音によって、演奏者の意図がいかに聴取者に伝達するかを聴取実験から考察し、実際の音楽の演奏における情動の伝達に関しての助力となる要素を明らかにしようとするものである。演奏者は、演奏をする際に聴取者に何かを伝える事を命題としている。そのために演奏者は、演奏表現の一部として「感情」を取り扱う事がしばしば見受けられ、また多様な演奏表現のスキルが求められる。しかし、意図した「感情」が聴取者に的確に伝わるものなのか、またどの程度伝わるものなのかということは、演奏者自身が正確に感知できるものではなく、意図した通りに伝えるのは非常に困難である。しかしながら、演奏者が情動の想起を意図して演奏した場合に、何かしらの「感情」が聴取者に伝わる事もまた事実であるため、それを少しでも解明できるような実験を試みた。

本論文は、序文と結びのある4章構成となっており、序文では、研究の目的や研究の方法、先行研究の紹介、論文の構成について述べた。そして第1章では、心理学と音響心理学における「感情」と「情動」という言葉の扱われ方やその差異を示したのち、本研究を形作る上で土台とする、音や演奏者のモデルや、音と聴取者のモデルの概念を明瞭にし、その外延を確定づけるに至っている。そしてそれを基に第2章では、「情動の想起を意図した楽器演奏音」を録音し、聴取者への聴取実験(実験Ⅰ)を行なった。その結果、被験者が音楽演奏を主専攻としない場合、情動のポジティブ"ネガティブという次元が演奏者の設定した情動とは反対になるということ、また、被験者が音楽演奏を主専攻とするかしないかに関わらず、情動のポジティブ"ネガティブの次元に比べ、情動の強度の次元に明確な有為差が確認できるという事がわかった。

続く第3章では、第2章の実験Ⅰにおける、設定した情動に実際の音楽表現や演奏表現との相関性が少なかったという可能性や、音刺激が音階演奏であり音楽的でなかった等の問題点を踏まえ、それらを改善するため、ある特定の楽曲を用いて別の新たな実験(実験Ⅱ)を行なった。さらにここでは、被験者が音楽演奏を主専攻とするかしないかで起こった実験結果の差異が、音楽演奏を主専攻とする被験者の場合、音刺激を演奏した演奏者と楽器演奏を行なうもの同士に共通するある種のコンセンサスが生じていた可能性があるという意見が被験者から多数挙げられたため、音楽演奏を主専攻としない被験者のみを対象とする事にした。そして実験Ⅱでは、実験Ⅰにおいて情動の強度の評価により明確な結果が確認できたため、「ある1つの情動の強度(表現量)を変化させた場合にも、聴取者がそれを明確に受け取る事が可能であるか」というところに焦点をあて、その結果、演奏者の意図した情動の表現量と被験者の評価した値に順序的な対応を確認することが出来た。

第4章では、実験を受けた際の演奏者と聴取者の所感を基に、考察や推察を行なった。ここでは大別して、「演奏の順序」と「過度の演奏表現」、「演奏ミスと好み」という3つの考察すべき点が浮かび上がった。これらは全て、明確な結果を求めようとした本研究の実験に対しては問題点となり得るものであるが、これは音楽の持つ性格から来る問題点であると同時に音楽の面白さや良さを示すものでもあった。

そして終わりに、第4章の推察を通じて見えた実験の問題点や、実験の結果少なからず情動の伝達が証明の範疇にあった事から、今後の研究の手掛かりを述べ結びとし、本論文を閉じている。

Luiz Fernando Kruszielski
《映像のフレームサイズの違いが直接/反射音比率の“ふさわしさ”に与える影響について》
映像のフレームサイズの違いが直接/反射音比率の“ふさわしさ”に与える影響について

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《映像のフレームサイズの違いが直接/反射音比率の“ふさわしさ”に与える影響について》

映像のフレームサイズの違いが直接/反射音比率の“ふさわしさ”に与える影響について

Luiz Fernando Kruszielski

本論文では空間の知覚に置ける視覚と聴覚の関係について調査を行なった。 最初の実験では被験者は映像を見ながらそれにふさわしい直接音/残響音比率で(D/R) を調節した。

2つ目の実験では、3種類のフレームの映像と、音源からの距離の異なる3種類の残響音を組み合わせて一対比較をおこなった。

横堀応彦
《浮遊するドラマトゥルク -日本の舞台芸術現場におけるドラマトゥルクの可能性をめぐって-》
浮遊するドラマトゥルク -日本の舞台芸術現場におけるドラマトゥルクの可能性をめぐって-

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《浮遊するドラマトゥルク -日本の舞台芸術現場におけるドラマトゥルクの可能性をめぐって-》

浮遊するドラマトゥルク -日本の舞台芸術現場におけるドラマトゥルクの可能性をめぐって-

横堀応彦

本研究の目的は、日本の舞台芸術現場においてドラマトゥルク(dramaturg)が果たす可能性について考察することである。ドラマトゥルクというと日本ではあまり馴染みのない職能であるが、主にドイツ語圏の公共劇場やオフシアターあるいはフェスティバルでは舞台芸術を作り上げる上で欠かせない存在とされている。近年日本でもドラマトゥルクを名乗る演劇人が増え始めており、筆者自身もそのうちの一人である。しかし日本の舞台芸術現場におけるドラマトゥルクの理解は決して充分とはいえず、「ドラマトゥルク」という文字面だけが実態を伴わないまま一人歩きしてしまっていることが指摘できる。

本論文では日本の舞台芸術現場において今まさに起こっていることをスケッチしながらドラマトゥルクがもたらす可能性を解明しようとした。文献調査によりドラマトゥルクの職能について概説的に論じた後、日本におけるドラマトゥルクの実践事例として長島確氏の活動事例を中心に取り上げた。従来より存在しているプロデューサーや制作といわれる職能の実態について解明しながら、現場においては未だにドラマトゥルクと制作が重複した職能として認識されている現状を指摘した。そのようなドラマトゥルクの過小評価の一方で、ドラマトゥルクに対する過大評価が広がっていることを広報物におけるクレジットのされ方を検討しながら分析した。今現在「ドラマトゥルク」という肩書きのみが実態を伴わないまま浮遊してしまっており、重要なことはどのようなクレジットのされ方であれドラマトゥルク的な職能そのものが普及していくことだと主張した。

以上の議論を踏まえて、日本の舞台芸術現場においてドラマトゥルクという職能がもちうる可能性を最大限に生かしていくためにはどうすれば良いか。2010年現在話題になっている「劇場法(仮称)」との関連性や先行研究に基づき、ドラマトゥルク養成の可能性、演劇・ダンス・オペラにおけるドラマトゥルクの可能性、公共劇場・フェスティバルにおけるドラマトゥルクの可能性について論じた。

神谷知里
《日本における映画・映像文化の発展と人びとのかかわり -山形国際ドキュメンタリー映画祭を中心に-》
日本における映画・映像文化の発展と人びとのかかわり -山形国際ドキュメンタリー映画祭を中心に-

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《日本における映画・映像文化の発展と人びとのかかわり -山形国際ドキュメンタリー映画祭を中心に-》

日本における映画・映像文化の発展と人びとのかかわり -山形国際ドキュメンタリー映画祭を中心に-

神谷知里

本論は、日本各地で行われている「地域映画祭」を対象として、映画が映画人、観客、地域コミュニティの「結束点(node)」として機能し、どのような社会的環境をつくり上げ、独自の映画文化が発展してきたか明らかにすることを目的としている。

これまで、映画文化は作品、作家、産業的・技術的発展の歴史として語られることが多かった。しかし、日本における映画文化の発展について考えるには、作家や作品論だけではなくそれらが発展してきた社会的背景や歴史も無視して考えることはできない。文学作品に代表されるように、近代の表象文化の基本原理は、表象が受容される舞台を制度化し、その舞台の文脈を透明化した上で、表象の産出者の権威を確保することで成り立ってきた。こうして、作家だけが作品の中心的人物としてクローズアップされ、舞台を成り立たせる社会的要因や歴史的背景、観客の受容についてはほとんど言及されてこなかった。その結果、コンテンツ(内容)は同じだから、映画館で見ようがDVDで見ようが、映画の本質には関わりがないというメディア観が常識化し、映画を見るということは、物語の内容を私的に解釈することであるという認識が広がることになった。しかし、映画はその誕生から多くの鑑賞空間や批評空間を組織し、人々に影響を与えてきた。そして映画は、製作・配給・上映の3つのプロセスからなるが、これを「送り手」から「受け手」の、それも様々な組織や団体のノードが連なりあうネットワークによってつくられた文化として研究することは可能なはずである。実際、近年、映画運動や受容空間に関する優れた研究がいくつも立ち上がっている。

本研究は、非商業的なベースに即して特定の方向性を持ち、鑑賞活動の場の構築と支援を行った映画普及主体と関連し、映画祭の性格と社会的意味を明らかにすることを目的とする。特に、本論では1989年に山形市の主催事業としてはじまった『山形国際ドキュメンタリー映画祭』を研究対象としている。

Arni Kristjansson
《日本におけるDubstep -音楽シーンに関する考察-》
drama -for Alto Saxphone & Electronics

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《日本におけるDubstep -音楽シーンに関する考察-》

日本におけるDubstep -音楽シーンに関する考察-

Arni Kristjansson

本論の日本における「ダブステップ」といったクラブミュージックのシーンに関する議論を通じて、筆者は、「いかにして新たなシーンが形成されるか」、そして「新たなシーンの形成にインターネットがどのように関与しているか」を考えていく。

佐藤岳晶
《失われゆく音楽文化の多様性・多言語性を求めて -グローバル化時代の地歌箏曲伝承のフィールドワークから-》
失われゆく音楽文化の多様性・多言語性を求めて -グローバル化時代の地歌箏曲伝承のフィールドワークから-

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《失われゆく音楽文化の多様性・多言語性を求めて -グローバル化時代の地歌箏曲伝承のフィールドワークから-》

失われゆく音楽文化の多様性・多言語性を求めて -グローバル化時代の地歌箏曲伝承のフィールドワークから-

佐藤岳晶

急激な社会・環境変動の下、地球上のさまざまな「多様性」が失われ続けている――その今、「多様性」の維持・発展についてあらためて、社会の中で広く問いなおされ始めた。

植民地主義を背景とした西欧文明の世界進出・制覇の歴史、グローバリゼーションとともに単元化・統合が進む世界、その歴史的・社会的背景の中で、音楽文化もまた、西洋音楽文化・音楽言語のヘゲモニーの拡大・浸透とそれに伴う非西洋音楽文化の危機とともに、その「多様性」は急速に失われつつある。

ある識者は言った――グローバリゼーションとは、歴史と地理の喪失だ、と。そして、一つの大きな「帝国」の出現による「外部」の不在化・「他者」の喪失。

その一極化に抗して、歴史と地理を取り戻し、多様な想像/創造の(再)探究から代替的文化世界・地図を模索する営みが拡がっている。音楽において、その想像/創造はいかにして可能なのか――西洋音楽言語の「外部」には、どのような「差異」を有する音楽言語が存在するのか?その音楽言語・「差異」から、どのような創造が生まれうるのか?――。西洋音楽言語との「通約」ではなく、「通約不可能性」を基とする非同一な音楽言語間の共存と折衝において生まれる「多言語性」・「多様性」を求めて、当研究プロジェクトは立ち上げられた。

重要無形文化財保持者(人間国宝)である二代 米川文子師の主宰する、地歌・箏曲の一流派、「双調会」は、西洋音楽の「外部」に、独自の歴史と地理に育まれた豊かな音楽文化・音楽言語の世界が存在することを今に伝える稀少な音楽一派である。その門戸を叩き、伝承の輪に参与する体験――それは、西洋音楽を幼少より専門的に学んできた筆者にとっては、西洋音楽の特権的「知」のunlearning(反転学習・学びつつ解体する)でもある――から思索は拡げられた。

当研究においては、社会学、文化人類学、言語学、哲学・思想といった諸領域を横断しつつ多角的視座から音楽の営みを検討すると同時に、その成果は実践的表現――演奏や作品創作によってもアウトプットされる。それは、学際性ならびに研究・思索と実践の接合を旨とするカルチュラル・スタディーズを援用した、伝統邦楽への新たなアプローチの開拓でもある。